船橋市 「アラブの春」
イスラム主義勢力の台頭で内線状態に
2014年6月には2度目の選挙である憲法起草委員会選挙が実施され、世俗主義の議員が増加するという結果になりました。この結果を不服としたイスラム主義勢力が、世俗主義の民兵とトリポリで戦闘を開始し、イスラム主義勢力が優勢となりました。その結果、選挙によって新たに作られた政府は避難せざるをえなくなり、8月に東部のトブルクで代議議会(HoR)を設立することとなりました。
一方、トリポリでは「リビアの夜明け」と称するイスラム主義勢力と、選挙まで政権に就いていた国民評議会が主体となってGNCを続投させ、「救国政府」を設立したのです。つまり、東に「代表議会」、西に「救国政府」が並び立ってしまったのです。
こうして2014年以降、リビアは実質的な内戦状態に陥りました。この世俗主義VSイスラム主義の東西対立に、退役軍人であったハリーファ・ハフタルが主要な人物として加わります。ハフタル軍は西部のイスラム主義者やISの攻撃を行なったのです。彼はそもそもカダフィーの右腕といわれましたが、1987年のチャド侵攻に失敗し捕虜となり、アメリカに亡命していました。カダフィー政権打倒のために2011年に帰国したため、彼はアメリカに近い人物と考えらえていました。
当初、欧米は東部のHoRは正当な選挙結果に基づくとして、その存在を認めていましたが(GNUは正当と認められていなかった)、ハフタル軍については東部の正当な代表として認めていませんでした。東部の代表会議(HoR)は有力な民兵組織を有していなかったために、2015年3月に彼を軍の最高司令官に任命して取り込みを図りました。内戦が続くにつれ、東部ではHoRというよりはむしろハフタル軍の存在が顕著になっていきました。
IS勢力の拡大
東西対立の合間をぬって、ISも2014年以降、リビアで活発に活動するようになっていました。2015年にはISが石油関連施設を攻撃したり(失敗に終わった)、中部の都市シルトなどを占拠するに至ったのでした。しかし、リビアではISの主張する国境線の引き直しやカリフ制度再建については、あまり住民から受け入れられなかったようで、支配地域は中部の都市に限られ、ISの構成要員も外国人が主体であったといわれています。
欧米はリビアの再度の内戦突入とIS勢力の拡大に対して、政治的な解決を図るために、国連リビア支援ミッション(UNSMIL)を活発化させ、2014年9月から各派閥を招いて協議を行ないました。2015年3月には、モロッコにおいて統一政府(国民合意政府:GNA)が設立されました。できたばかりのGNAに実質的な力はなかったものの、GNAの要請に基づいて、2015年8月には米軍がISの空爆を行ないました。さらに、エジプトも安全保障を脅かすとして、ISに対して空爆を行ないました。地上では、ISではないイスラム主義勢力が民兵やハフタル軍とともにISを攻撃し、ISによるリビアでの拡大は阻止されました。
ISの拡大は協力して阻止できたものの、東西対立は現在まで続いています。当初、西のGNUと東のハフタル軍は、国連主導で設立されたGNAを承認していませんでした。GNUはGNA政府に対してクーデターを起こしたりもしましたが、現在のところGNAを承認するに至っています。
ところが、東のハフタルはまだGNAを承認していません。ハフタルは、アメリカ寄りと思われていましたが、アメリカがコントロールできているわけではありません。彼はムスリム同胞団の排除を試みているエジプトのシシ大統領から支援を受けており、IS撲滅のために一緒に戦ったイスラム主義グループをISとの戦闘後には攻撃するなど、イスラム主義勢力を排除しようとしているようです。さらに、ハフタルはカダフィーを軍事的に支援していたロシアにも急接近しています。
GNAは国際社会から認められているものの、軍事的には寄せあつめの民兵に頼らざるをえない状態です。一方、ハフタルは東部を軍事を含め、実質的に掌握しているのが実情です。欧米も当初はハフタルを交渉のテーブルにつけるつもりはなかったようですが、しだいにハフタルを認めるという現実路線に転換しつつあります。ですが、まだハフタルは交渉のテーブルにすらついておらず、東西対立は解消されないままというのが現状です。
このように、リビアのケースはカダフィーという強力な統治者が、外部勢力からの空爆という協力を受けて比較的短期間に排除されたために、政権を引き継げるような受け皿の準備が整っていませんでした。その結果、権力が分散化してしまい、軍事力を含めて統治機構そのものが崩壊してしまったといえるでしょう。 今回は北アフリカ3カ国で発生した「アラブの春」の経緯を比較してみましたが、おそらく民主化の道のりはもっと長期的に分析するべきであろうと思います。けれども、それと同時に「アラブの春」発生からすでに6年が経過しており、内戦や社会的混乱の中で生まれた子供たちや若年層にとっては、6年はとても長い時間であるともいえるでしょう。「アラブの春」は失敗だったと単純に答えを出すのではなく、今後も継続して行方をみていく必要があるでしょう。